The OSHO Experience / OSHO エクスペリエンス(英語版)
『OSHO エクスペリエンス』は、エレガントで、手軽に持ち運べるマガジンスタイルの雑誌です。
すでにOSHOを知っている人、そして、”OSHO”とは何なのかを知ろうとしている人にも興味深い一冊でしょう。
「体験とはあなたの外側の何かだ。体験者とはあなたの実存だ。
そして、その体験者のために私たちはOSHOという言葉を使う」
以下の読み物はOSHO エクスペリエンスよりの抜粋の翻訳です。Copyright 2003 OSHO International Foundation
イントロダクション (page 8)
If you were lucky enough to find one of the those magic genies
あなたが幸運にも、3つの願い事を叶えてくれるという魔人に出会ったとしたら、その願い事の一つは「幸せになりたい」とか「自分を気もちよく感じたい」、或いは「満たされていたい」とか何かそういった事に違いない。それとも「もっと痩せたい」とか「太りたい」、「背が高くなりたい」とか「低くなりたい」、「色が白くなりたい」とか「黒くなりたい」或いは「もっと成功したい」とか「権力を持ちたい」、「賢くなりたい」とか「静かになりたい」など、そうしたことが願い事だとしても、その根底にあるのは、「気持ちよくありたい」という、普遍的で基本的な欲求だろう。
気持ちよく感じることは、実は自然なことだというのは、OSHOの基本的な洞察の一つだ。地球上に存在する生命体の中で、欲求不満で惨めなのは人間だけだ。樹や野生の動物に精神分析医は要らない。この問題が私たち人間にだけ起こる単純な理由は、私たちが自然でなく、自分自身の本性と調和して生きていないことにある。だが、それはどういうことだろう? 私たちは、これまで信じ込まされてきたように自然から切り離されている訳ではなくて、その一部なのだと気づくことこそ必要だ。我々は存在、生そのものから無条件に、あるがままの姿で招かれたことに感謝するのをしばしば忘れている。逆に周りにいる者といえば、本来自分が持っている可能性を成就することよりも、自分の価値を証明するように、彼らの期待に答えるように条件を押し付けてくる者ばかりだ。
依存と傷つきやすさ(page8)私もまた、ほとんどの人々と同様に、子宮という究極のサービスを受けられる住処での非常に平和な9ヶ月を過ごし、それがかなりトラウマティックに終った後に、何だが霞んだ目をしてこの惑星にやって来た。私は贅沢なテーラーメイドの温度調整されたウォーターベットで、子宮の24時間サービスを受けながら漂っていたのに。それが突如、裸で冷たい部屋の中に、まばゆい光、カチャカチャいう金属製の器具、心配そうなまなざしの中に放り出され、歓迎の印として息する暇もなく、お尻を一つ、ぴしゃりと叩かれる。それは、ショッキングな手荒い立ち退き宣告だった。 やがて誰かが私の口に何かを突っ込んで何かして、そしてビックゲームが始まる。でも、何てことだろう、ルールは変わってしまっていた! 生き残ることが最重要になる。そして私は何かを交渉できるような立場にはない。他の皆に比べて、私はあまりにも小さくて、話にならないほどか弱くて、お腹が空いていて、よくお漏らしする。痛ましいほど依存していて傷つきやすい存在だ。もしラッキーならば、お乳を飲んでいる間は母親の腕に抱かれていられる。そして母親の波動を感じることができる。ふう、何もかも無くしてしまったわけじゃなかった。それからすぐに、微笑めばもっと長く胸に抱いていてもらえることに気づく。政治の第一レッスンを学んだところだ。
生き残りゲーム(page9) 生き残るためには、成長の過程でミルクと共にやってくるものは何であれ、飲み込まなければならない。周りの人々は「男の子ならいいのに」と思い、「医者にしよう」と思い、「ピアノが嫌いだなんてつまらない」「神は存在する」「お前はクリスチャンだ」「お前はイギリス人だ」と説得し、「表で有色人種と遊んではいけない」などと言う。おしっこが出てくるところは、到底理解できないような、何か特別なものなのだと言い聞かせる。笑いや歓びはコントロールしなければならない、騒がしすぎる、何でも知りたがり過ぎる――何であれ、ルールを決めるのは彼等だと知らされる。だから、上手くやってのけた方がいい。このゲームは彼ら流に進むのだから。唯一確かなことは、あるがままの自分ではだめだが、彼らの言うことを聞けば大丈夫なのだろうということだ。「何かいい事」を求めて止まないホルモンがいっぱいの血流と共に思春期が訪れる。そして又しても、大きな「ノー」。悪戯者、悪い子だ、けしからん、我慢ならない、よそでは死刑になりかねないような犯罪だ、などと言われる。今や自分は、あらゆる抑圧的な非難に対して益々強く主張してくる自己の本性と、混沌とした戦いを挑んでいる。両親や友人、目上の人々や聖職者や政治家たち――誰もが自分の意見を押し付ける。そして自分は、とんでもないプレッシャーや失敗に対する非難、成功する必要性など、気も狂わんばかりのゴタゴタに、必死に「分かった」と、うなずこうとしている。そして相手より上に、もっと上に、いやトップになろうとする、何だか強制的な競争の中で、自分に対抗するだけでなく、友人にも対抗している。かすかに残っていた、あるがままの自分でオーケーなのだという幻想は、とっくに無くなってしまった。明らかにオーケーなんかじゃない。自分の本性は周囲の力によって教化されなくてはならないのだ――実を言えば、それはちっとも洗練されたようには見えないのだけれど。本来あるがままの自分ではなく、何かに、誰かになろうとすることから、あらゆる緊張が生じる。そして、驚くことなかれ、自分は何だか居心地が良いと感じていないし、満ち足りて幸せ、祝福されているなんてとんでもない事になのに、ようこそ大人の世界へというわけだ。
過去からの継続(page9) これまではほとんど、自然は私たちの敵だった。そして私たちは自然の中で恐怖と共に生きてきた。長い夜には、野生動物や寒さから身を守るため、火を絶やさぬように囲んで縮こまって過ごしてきた。一瞬の内に命を奪われかねない、予測不可能な天候。絶えず付きまとう不思議な病。何百万年もの間、生は短く、自然の気まぐれに完全に依存してきた。生存を賭けたこの苦い戦いから自然への不信的態度が増長し、私たちは自然を征服するより他なかったというのは驚くには当らない。こうした環境へのアプローチの影響が今日、明らかになってきている。つまり、ほとんど環境は残されていないということだ!内なる環境への影響はそれほど明らかではない。だが内なる自然、人間の本性に対しても、私たちは同様の考えを抱いてきた。即ち、それを信じてはならない、それは何か征服されるべきものであり、コントロールされ抑圧されるべきものだという考えだ。「人間の本性」という言葉は、残虐で醜い人間の振る舞いへの最後の言い訳としてしばしば使われてきた。何も変わりはしない、それが物事の在り様なのだと。しかしながら世界的警告が脅かすように、水が涸れて砂漠化が広がり、種が絶滅し――私たちは自然を敵と見なすのではなく、調和をもって、それと共に生きることを学び始めたところだ。すなわち動物や樹は征服すべき敵ではなく、私たちの生の、正に礎となってくれる友なのだということを。この自然の享受は、内なる自然についても言える。自然にはすばらしい調和があって、私たちはその自然の一部であり、分離してはいないという理解だ。そして自分の本性と同調すればする程、私たちはもっと自然と調和していく。究極的に、仮に私たちが自分を、自分の本性を心地よく思わないとしたら、他人を愛することなど論外だ。自然を愛することは言うまでもなく、一体どうやって他者を愛せるというのだろう?それはOSHOの生へのアプローチの出発点だ。
自然との分離(page10)私たちは自然の一部であり、それから分離した存在ではないということは、今日では学識的には明らかだ。しかしながら私たちは周囲にいる、所謂知識人たちによって条件付けられてしまっている。そして彼らもまた、周りにいた人々から条件付けられてきた。つまり、それは過去の考えと信条であって、今日のものではないのだ。自己の本性は非難されるべきものであって信じてはならず、生来の能力や知性、直感や本性といったものは抑圧しなければならないという根深い信条システムを、私たちは未だに引きずっている訳だ。それで、私たちは基本的に分裂してしまった。躾は私たちをある方向に引っ張り、本性は違う方向へと引っ張る。こうした全ての結果として、私たちはあるレベルでは、「ああ、元気さ」と確信しながらも、同時にもっと深いところでは決してくつろいで安らいでおらず、全体感を感じていないという逆説的状況に陥っている。それは私たちが「正常」だと受け入れられるためにどうしても支払わなければならない代価なのだ。
非難か責任か(page11)これを物事の在り様だと受け入れるのか? それとも自分自身を見つめるための時間をさいて、自分が本当は誰なのか、或いは誰であり得るかを探してみる価値はあるのだろうか?こう考えてみるといい。あなたは会社を運営している。そして材料原価や運搬費、労働賃金やマーケティングといった会社の詳細を把握している。それが突然、市場が変わる。知識を総動員して、あなたは最善の対処をすることができる。少なくとも、あなたは一番よく分かっている対処をする。では、自分という会社についてはどうなのだろう?今日の精神分析医は、私たちが「自分は誰か」ということの僅かな情報しか持たずに生活しているという。私たちは内側の倒産のすぐそばで生きているのだ。幸いにも、自然は条件付けられたマインドにも、その解毒剤を与えてくれている。自己発見の完璧な道具だ。だが、空腹や喉の渇きといった他の自然のこと違って、この機能は十分には発達した形ではない。それは可能性に過ぎない。犬は犬であるようにプログラムされている。幾つかの芸を教え込むことはできても、犬は自然がそうあるようプログラムしたままに留まる。すなわち犬だ。だが人間は違う。そうしたければ、犬のようにプログラムされたままでいることもできる。だがプログラムを超えて、躾られたようにではなく、自分のことを自分で決めることができる。OSHOのアプローチは、どう在るべきかという他人の意見を無闇に受け入れるのではなく、自分自身のライフスタイルを見つける手助けをしてくれる。重要なステップは、今、自分がどう在るのかを、受け容れることだ。他人ばかり非難していれば、解決法はあなたの手中にはなくなってしまう。それは彼らの手の内にあり、あなたは再び途方にくれる。もし不幸なら、自分が幸せになれたかもしれないことを選ばなかった責任を取ればいい。間違いから学ぶのだ。だが、同じ過ちを何度も犯すべきではない。
究極の解毒剤(page11) ひとたび、自己発見のこの「内なる科学」に目を向け始めれば、あなたはすぐにその鍵が「瞑想」と呼ばれるものであることに気づくだろう。それはほとんどの人がそうと思い込んでいるようなものではない。 聖人になることや、ひどく窮屈な姿勢で坐ってもっともらしい表情を浮かべることではない。それは集中したりマントラを唱えたり、祈ったり、誰かを崇拝することではない。瞑想とは、単にマインドから距離を置くことに過ぎない。ちょうど、道路を横断する時に車の流れを見守るように、瞑想では、あなたはマインドの流れを、思考や感情や以前録音されたテープの絶え間ない流れを見守る。こうした録音メッセージは、子供の頃、頭を満たしていた人々の声に代わって、私たちの生を突き動かしている。そして、この過程に気づかない限り、私たちは往来で立ち往生したままだ。覚醒という、天然の奇跡的な解毒剤は次のように働く。こうした古くて感情的で知的な録音テープは、それが生来のものだと信じている限り、私たちの生を突き動かし続ける。一度こうした古い思考や感情を見るコツをつかめば、それは私たちから離れて気づきの対象となる。見ることができるものは「向こう側」にあるからだ。マインドの中身と、その観照者の間の隙間に気づく瞬間、思考と感情との同一化が落ち、それは影響力を失う。ノー・マインドという言葉を聞いて心配する必要はない。あなたは何も、マインドを無くすわけではない。マインドに使われるより、むしろ必要な時にいかにそれを使うかを学ぶのだ。マインドは何であれ、比較対照することで動く、優秀なバイオコンピューターだ。黒と白、夜と昼、善と悪といった具合に。音楽を聴いてくつろいだり夕陽を楽しんだり、恋に落ちた時に、この論理的に切り込むメカニズムを使うのは、チーズを嗅ごうとして顕微鏡を覗くようなものだ。偉大な道具だが、使用するアプリケーションを間違えている。
役立つ道具(page12)どうやってマインドを見ることを学ぶのか?もしあなたがインドのプネーにある、OSHOメディテーションリゾートで、しばらく過ごせるのなら、自己観察のコツを学ぶに当っての、おそらく最良の取掛かりとなるだろう。リゾートに来られないなら、あるいは来るまでの間には、現代人のために特別にデザインされたOSHOのアクティブ瞑想が、強力なスタートポイントとなるだろう。ペースの速い現代では、しばしの間でも静かにしていることは、ほとんど不可能だ。まず、アクティブ瞑想でストレスを開放することで、心身がくつろぎ、瞑想がより容易になる。www.osho.comを見れば、各テクニックを正確にはどうやればよいか、ビデオでデモンストレーションが見られるし、各テクニックの為に特別に作られた音楽を注文することもできる。Meditation:The first and last freedom(「新瞑想法入門」)という本は、OSHOスタイルの瞑想への素晴らしい入門書だ。また The art of Ecstasy (「瞑想―祝祭のアート」)には、ダイナミック瞑想の科学が詳しく述べられている。更にリゾートにはマルティバーシティがあり、瞑想入門の近道としてデザインされたプログラムが提供されている。条件付けのプロセスは、抑圧された思考や感情を、私たちが気づかないよう無意識の奥へと追いやる。そして私たちに、全く偽りの自分をとことん信じ込ませる。マルティバーシティの全機能とは、あなたが寛いで、あるがままの自分をどんな判断もなしに受け容れられるように、安全でニュートラルな、守られた環境を提供することだ。そうすれば、抑圧されていたものもまた受け入れ易くなる。それが自然と表面に現われ、そして初めて気づきが起こるからだ。こうしたことが、あなたを自己発見の旅にいざない、できるだけ早く一人前の瞑想者になれるようにデザインされた、日々の瞑想プログラムの中で起こる。時間があるなら、おそらく最もよい経験は、リゾートでの仕事「瞑想としての仕事」のプログラムに参加することだ。ここであなたはマルティバーシティや瞑想プログラムから学んだことを、規則的な仕事という環境の中で試すことができる。まずは静かに坐っている時に自分を見られるようになることから、一番忙しい状況の中でも気づきを保って寛いでいられるようになるまで、その成長をサポートしてくれるコーチがいる。
2500年来、初の革新的瞑想(page13)どこで瞑想を始めようとも、やはりアクティブ瞑想がマインドを静めるという、きわめて重要な入り口となる。それから「見ること」が始まり、自ずとそれに続く、次第にます内なる静寂を体験することになる。OSHOの提案の最も画期的な部分のほとんどは、おそらく、伝統的な禅がなぜ失敗したのかという理解に基づいている。瞑想者はくつろぐよう、静かにするよう、努力しないように言われる。どうしようもないジレンマ。努力しなければ静かに座れないし、努力してはいけない。Oshoが述べているように、録音された彼の講話は、聞き手に、努力せずに沈黙を経験できる機会を与える為のものだ。彼も努力しないし、聞く方も努力しない。だからそういう意味では、言葉はただの沈黙の容器に過ぎない。だからこそ3000を超える英語のOSHOのオーディオブックがあるのだ。もしこのアプローチが有効ならば、あなたは世界中のどこにいても、かつてはヒマラヤに行き、10年も20年も逆立ちしなければならなかったような、あるいは30年も米を研ぎ続けなければならなかったような経験をすることができる。この慌しい21世紀では時間があまりにも早く過ぎていくので、あなたはこの講話に興味を持つことだろう。おそらくヴィパサナ以来、最も革新的な瞑想が、あなたの側にあるMP3に乗ってやってくる! OSHO.comのオンライン、OSHOのオーディオブッククラブには300時間を越える講話があるので、そこから始めるといいだろう。
灯かりをつける(page13)誰もが変化について、変わることがいかに難しいかについて語る。だが単純なたとえ話が、これを分かりやすくしてくれる。世界が巨大な暗室だと想像すればいい。部屋中を動き廻る人々が家具にぶつかる度に、痛いと叫ぶ声。その声は、クリップボード片手にした、何を読んでいるのかも見えない人々が、どうやって家具を避けるのか指示するときに限り止む。OSHOの提案は灯かりを点けることだ。そうすれば家具を避けるのは簡単だ。それにクリップボードを手にしていた人は仕事を探しに行ける。最後に、普通私たちは成功するためには努力しなければならない、苦しまなければならない、目標を定めてそれに焦点を合わせなければならない、集中しなければならない、などと教えられる。このアプローチで問題なのは、我慢して苦しむ程、私たちは緊張する。そしてより緊張する程、もっとひどいことをするようになるということだ。OSHOの見解では、それぞれの瞬間に最も多くのものを与えるには、また、最も多くのものを受け取るには、できるだけ目覚めていなければならないということだ。目覚めている為には、私たちはリラックスしていなければならない。これはそんなにもシンプルなことなのだ。Page.16
ほんとうの自分とは誰?(page16)
Conditioning is something forced from the outside upon you against your will条件付けは、あなたの意志に反して、あなたの意識に反して、外側からあなたに押し付けられたものだ。それはあなたを破壊するためにある、あなたを操るためにある。あなたの本質的な人間が失われてしまうように、偽りの人格を作りだすためにある。 社会はあなたのリアリティをひじょうに怖れている。あなたの本質的な人、あなたの本質的な存在を教会は怖れている、国家は怖れている、誰もが怖れている。というのも、本質的な存在は反逆的、知的だからだ。簡単には奴隷に貶められない。搾取されることはありえない。あなたの本質的な存在を手段として利用することは誰にもできない。あなたの本質的な存在は、それ自体で独立した目的なのだ。 だからこそ、社会全体があらゆる手を尽くして、あなたの本質的な核からあなたを切り離そうとする。そして、それが偽りの、作り物の人格をあなたのまわりに生みだし、それと同化することをあなたに強いる。それが教育と呼ばれるもののなんたるかだ。それは教育ではない。間違った教育だ。破壊的、暴力的だ。 社会全体が、今に至るまで、個人に対してひじょうに暴力的だった。個人を信じていない。個人に反対しているのだ。独自の目的にそってあなたを破壊しようと、ありとあらゆる方法を試みる。社会には職員が必要だ。駅長、副収税官、警察官、行政官が必要だ。兵士が必要だ。人間は必要ない。 私たちは、今まで、人間、素朴な人間を必要とする社会を創ることに失敗してきた。社会は、あなたがもっと器用になり、もっと生産性を高め、しかし、独創性は低めなければならないということに関心をもっている。あなたが効率よく、機械のように働くことを望んでいるが、目を覚ますことは望んでいない。ブッダやキリストたち――ソクラテス、ピタゴラス、老子を望んではいない。いや、こうした人たちは社会からはまったく必要とされていない。ときたま彼らが起こることはあっても、社会ゆえに起こるのではない。社会はどうあろうとも、彼らは起こる。 どうして少数の人びとがこの巨大な牢獄からときとして抜け出すことができてきたのか、それは奇跡だ。牢獄はあまりにも巨大だ。抜け出すのはひじょうにむずかしい。しかも、ひとつの牢獄から抜け出しても、地球全体がひとつの牢獄になっているから、あなたは別の牢獄に入ってしまう。あなたはヒンドゥ教徒からキリスト教徒になることもできるし、キリスト教徒からヒンドゥ教徒になることもできる。だが、あなたはただ自分の牢獄を取り替えているだけだ。インド人であることからドイツ人になることもできるし、イタリア人であることから中国人になることもできる。だが、あなたはただ自分の牢獄――政治的な、宗教的な、社会的な牢獄を取り替えているだけだ。おそらく数日は、新しい牢獄が自由のように見えるだろう――その目新しさのせいにすぎない。さもなければ、それは自由ではない。自由な社会は、依然として、実現されなければならないひとつの概念だ。人間のこの隷属全体が条件付けによって決まる……。条件付けは母親の子宮から、あるいは、遅くても、あなたが生まれた瞬間から始まる。あなたは割礼を受け、ユダヤ人になる。洗礼を受け、キリスト教徒になる。他にもいろいろある。あなたは教会や寺院に連れてゆかれ、まわりのみんながキリスト教徒、あるいは、みんながヒンドゥ教徒という、ある一定の環境のなかで育てられる。そして、自然に、子どもは必ず自分のまわりの人たちに従うことになる。 その子が25歳になり、大学から戻ってくる頃には完全に条件付けられ、あまりにも深く条件付けられているために、自分でその条件付けに気づくことすらないだろう。あらゆることが彼のバイオコンピュータにかけられている。そして、社会は、こうした条件付けには気が乗らない、反抗する人たちを罰する。とても喜んで奴隷になる人たち、特権階級に喜んで奉仕する人たちに、社会は金メダル、賞、ノーベル賞をもってさえも褒美を与える。社会全体が、あなたのまわりの無数の人びとが、故意に、あるいはそうとは知らずに、あなたを条件付けている。彼らも条件付けられている。自分たちは破壊的で暴力的だということに、彼らは気づいていないかもしれない。あなたの助けになっているのだと思っているのかもしれない。自分たちは人を愛しているから、この偉大な奉仕すべてを、思いやりでもってしているのだと思っているかもしれない。自分たちが子どもに対してなにをしているか気づかないほど、彼らは深く条件付けられている。 先生、講師、教授たち、彼らは人びとを条件付けるための道具、微妙な道具だ。聖職者、精神分析家、彼らは条件付けに関してはひじょうに器用で、ひじょうにうまい人たちだ。その戦略全体を知っている。どうやって搾取するか、歪ませるか、どうやってあなたに偽の人格を与え、あなたの本質的な核を取り去るかを心得ている。Osho
自分自身を受け容れる(page18)
Knowing yourself should be the easiest things in the worldノ自分自身を知ることは、世界でもっとも簡単なことでなければならない。ところが、それがむずかしく、もっともむずかしくなってしまった。これは、自分自身を知ることは、ほとんど不可能になった。なにがおかしくなってしまったのだろう? あなたには知る能力がある。あなたはそこにいる。知る能力はそこにある。だとしたら、なにがおかしくなってしまったのか? なぜ、この知る能力は自らに向かうことができないのだろう? ひとつのことだけがおかしくなっていて、それを正さない限り、あなたはいつまでたっても自分自身を知らないことになる。そして、おかしくなったことというのは、あなたのなかに分裂が生じているということだ。あなたは自分の完全さを失ったのだ。社会があなたを仕切られた家にしてしまった。あなた自身に反して、仕切ってしまったのだ。 その戦略は単純だ。いったん理解したら、それは取り除かれる。その戦略とは、社会があなたに、自分はどうあるべきかという理想を与えているということだ。そして、社会がそうした理想をあなたにあまりにも深く押し付けたために、あなたはつねに「自分はどうあるべきか」という理想に関心を抱き、自分とは誰なのかを忘れている。あなたは未来の理想にとり憑かれ、現在のリアリティを忘れているのだ。 あなたの目は遠い未来に焦点が合っている。だからこそ、それらは内側に向かうことができない。あなたは絶えず、なにをやればいいのか、どうやればいいのか、こうなるにはどうすればいいのかを考えている。あなたの言葉遣いは、「~すべきである」と「~でなければならない」というものになっているが、リアリティは「在る」だけで成り立っている。リアリティは、「~すべきである」と「~でなければならない」はまったく知らない。 バラの花はバラの花だ。なにか他のものだということなど問題外だ。そして、ハスはハスだ。バラがハスになろうとすることは絶対にないし、ハスがバラになろうとすることも絶対にない。だからこそ、彼らはノイローゼにかかっていないのだ。彼らに精神科医は必要ない。彼らに精神分析は必要ない。バラはただ自らのリアリティを生きているだけだから、健康だ。 そして、人間以外の全存在もそうだ。人間だけに理想と「べき」がある。「あなたはあれやこれやであるべきだ」――そうなったら、あなたは自分独自の「在る」に反して分裂してしまう。「べき」と「在る」は敵同士だ。 あなたはあなたであるより他にありようがない。それをあなたのハートに深く沁み込ませるがいい。あなたは、あなたがそうであるものでしかありえない。他のものでは絶対にありえない。いったんこの真理が、「私は私自身でしかありえない」ということが深く沁み入ったら、すべての理想が消える。それらは自動的に切り捨てられる。そして、理想がないとき、リアリティと出会う。そのときこそ、あなたの目は今ここにある。そのときこそ、あなたは自分がそうであるものに居合わせている。分割、分裂は消えている。あなたはひとつだ。Osho
アクティブメディテーション(page23)
Modern man is a very new phenomenon. No traditional method can be used exactly as it exists現代人というのは、全く新しい人間だ。現代人の様な人は、今まで決して存在したことがなかった。だからどんな伝統的なメソッドも、厳密には彼らに用いられない。つまり言ってみれば、すべての伝統的なメソッドは適切でなくなってしまった。例えば、身体は大きく変化した。とても汚染され、どんな伝統的なメソッドもその助けにはならない。今、地球をとりまく環境全体が人工的だ。大気、水、社会、生活をとりまく状況、何ひとつ自然ではない。あなたは人工的な環境の中で生まれ、その中で育つ。だから伝統的なメソッドは、今日では有害だと証明されるだろう。それらは、現代人にあわせて変化させなければならない。もうひとつのことは、マインドの質が基本的に変化したことだ。パタンジャリ(もっとも有名なヨガの注釈者)の時代には、人びとの人格の中心は頭ではなくハートにあった。それ以前は、ハートでさえなかった。それはもっと低く臍に近いところ、あるいは、臍よりも更に低いところでさえあった。いまや、中心は頭にある。だから、現代はマインドに働きかけるような教えが気に入られるのだ。どんなメソッドも、どんなテクニックも必要ではなく、ただ理解だけだ。しかし、もし言葉の理解、知識だけだとしたら、何も変化せず何の変容も起こらない。それは再び、ただの知識の堆積になる。私は、整然としたメソッドよりむしろ混沌としたメソッドを使う。なぜなら混沌としたメソッドは、中心を頭から下げるのをとても助けるからだ。どんな系統的メソッドも、中心を押し下げることはできない。なぜなら、系統化することは頭の働きだからだ。系統的メソッドによって頭は強められ、もっと多くのエネルギーがそこに注ぎ込まれるだろう。混沌としたメソッドをする時、頭は無用だ。それは、頭とは何の関係もない。メソッドがあまりにも混沌としているので、中心は自動的に頭からハートに押し下げられる。もしあなたが、ダイナミック メディテーションという私のメソッドを、力強く、無秩序に、混沌と、行なうならば、あなたの中心はハートに移動する。その時、浄化は起こる。浄化は必要だ。なぜなら、あなたのハートは頭の為にとても抑圧されているからだ。頭があなたの実存の中であまりにも優勢になり、それがあなたを支配している。ハートにはどんなスペースもなく、その切望は抑圧されている。あなたは決して心から笑ったこともなければ、心から生きたこともないし、心から何かをやったこともない。頭がいつも系統化しに、物事を数学的にするためにやって来て、ハートは抑圧される。だからまず最初に、意識の中心を頭からハートに落とすため、混沌としたメソッドが必要となる。だから、ハートの重荷を降ろすために、ハートの抑圧を解き放つために、ハートを開くために浄化が必要だ。もしハートが軽くなり重荷が降りたら、意識の中心はますます下に押される。それは臍に落ちる。臍は活力の源だ。そこからすべての他のものがやって来る、種の源だ。身体、マインド、そしてすべてが、そこから来る。私はこの混沌としたメソッドを、深い考慮の上で用いている。系統的方法論は、今や助けにならない。なぜなら、頭はそれを自分自身の道具として使うからだ。あるいは、献身的な愛の歌をただ唱和することは、今や助けにならない。なぜなら、ハートがあまりにも重荷を背負っているため、それが本当の唱和に花開くことはあり得ないからだ。意識が源に、根に降りなければならない。その時にだけ、変容の可能性はある。だから私は、混沌としたメソッドを、意識を頭から下に降ろすために用いる。あなたが混沌の中にいる時、頭はその働きを止める。例えばあなたが車の運転をしていて、突然誰かが目の前に飛び出して来たら、あまりにも瞬間的な反応が必要なため、頭はそれに反応できない。頭には時間が必要だ。それは、どうすべきでどうすべきではないかを考える。だから、あなたが事故の可能性を前にしてブレーキをかける時はいつも、臍の近くに何かの感覚を感じるだろう。あたかも、あなたの胃が出来事に対処しているかのように。事故によって、あなたの意識は下に降ろされた。もしもその事故が事前に推定されるものであったら、頭はそれを処理することができただろう。しかし、あなたが実際に事故に遭う時、何か未知のことが起きている。その時、意識が臍に動くことに、あなたは気づく。もし禅の僧に「あなたはどこで考えるのか?」と聞いたら、彼は腹に手を置く。西洋人が最初に日本の僧に会いに来た時、彼らは理解することができなかった。「ナンセンスだ!どうやって腹で考えるというのだ?」しかし、禅の回答は意味深い。意識は身体の中のどのセンターにも使える。本来の源にもっとも近いセンターは臍だ。頭は本来の源からもっとも遠い。だから、もし生命エネルギーが外向きに動いているなら、意識の中心は頭になる。そして、もし生命エネルギーが内向きに動くなら、究極的には臍が中心になる。混沌メソッドは、意識をその根っこに押し下げるために必要だ。なぜなら、根からのみ変容は可能だからだ。さもなければ、あなたがいくら言葉だけを並べ続けても、変容は起こらないだろう。何が正しいのかをただ知るだけでは充分ではない。あなたは根を変容しなければならない。そうでなければ、あなたは変わらない。ある人が何が正しいかを知っているのに、それについて何もできない時、彼は二重に緊張する。彼は理解しているけれど、どうすることもできない。理解というものは、それが臍――根からやって来る時にだけ、意味を持つ。もし頭だけで理解したなら、それがあなたを変容することはない。究極は、頭を通して知ることはできない。なぜならあなたが頭から機能している時、あなた自身の源である根と衝突しているからだ。あなたの問題のすべては、臍から離れてしまったことにある。あなたは臍からやって来たし、そこを通って死んでいく。人は根に帰って来なければならない。しかしそれは困難で骨が折れる。伝統的なメソッドが、興味を持たれて来た。なぜならそれらはとても古くからあり、過去にとてもたくさんの人びとが、それによって達成して来たからだ。それらは、私達にとっては不適当になってしまったかもしれないが、ブッダ、マハビーラ、パタンジャリ、クリシュナにとっては、不適当ではなかった。それらは意味深く、助けになった。古いメソッドは今や意味がなくなってしまったかもしれないが、ブッダがそれによって達成したが故に、それらは気を引く。伝承主義者は感じる、「ブッダがこのメソッドによって達成したなら、なぜ私にもそれが起こらないのだ?」しかし今、私達は皆、その頃とは異なった状況にある。環境全体、そして思考の領域全体が変わってしまった。すべてのメソッドは、ある特定の状況に、特定のマインドに、特定の人びとに対して有機的だ。古いメソッドが有効ではないという事実は、どんなメソッドも役に立たないということではない。メソッド自体を変化させなければならないだけのことだ。現在の状況を見る時、現代人はあまりにも変わってしまったため、新しいメソッド、新しいテクニックを必要としているということだ。Osho
OSHO ダイナミック メディテーション(page24)
This is a meditation in which you have to be continuously alert, conscious, aware, whatsoever.……これは、何をしている時もたえず油断なく、意識的で、気づいていなければならない瞑想だ。観照者にとどまりなさい。見失ってはいけない。呼吸している間、あなたは忘れてしまう可能性がある。あまりにも呼吸とひとつになり、観照することを忘れてしまうかもしれない。でも、それではあなたはポイントをミスしてしまう。できるだけ速く、できるだけ深く呼吸しなさい。あなたのエネルギーすべてを、それに注ぎ込みなさい。そしてなお、観照者にとどまるのだ。起こっているものごとを観察しなさい。あたかも、あなたはただの傍観者であるかのように。ものごと全体が、誰か他の人に起こっているかのように。ものごとのすべてが身体の中で起こり、でも意識は正確に中心を据えてそれらを見ているかのように。 この「観照」は、3つのステップ全部で保たれなければならない。そして第4ステップですべてが停止し、あなたが完全に活動を止め、凍りついたようになる時、この覚醒は頂点に達するだろう。OSHOダイナミック メディテーションは、5つのステージからなる1時間の瞑想です。それはひとりでもできますが、他の人びとといっしょに行なうと、さらにより強力でしょう。でも、これは個人的な経験なので、周りの人びとのことは忘れ、目は閉じたままでいて下さい。目隠しを使うのもよいでしょう。胃は空っぽの状態で、ゆったりとした心地よい服を着て行なうのが一番です。
第1ステージ:10分間
鼻で混沌とした呼吸をし、常に吐く息に集中します。吸う息は、身体がめんどうをみてくれるでしょう。できるだけ速く、強く呼吸して下さい。そして、より強く、あなたが本当に呼吸そのものになるまで強くしていきます。身体が自由に動くにまかせ、その動きがさらに自分の中のエネルギーの蓄積を助けてくれます。エネルギーが蓄積されて行くのを感じましょう。でも、第1ステージでは、それを解き放してはいけません。
第2ステージ:10分間
爆発です! 投げ出す必要があるものすべてを表現しましょう。徹底的に狂いましょう。叫び、大声を出し、泣き、ジャンプし、震え、踊り、歌い、笑い、自分自身を発散させましょう。何も抑圧しないで、身体を動かし続けるように。最初はちょっと大げさにやってみるのが、表出のきっかけになります。起こっていることを、決してマインドに邪魔させてはいけません。全一で、すべてをこめて没入しましょう。
第3ステージ:10分間
両腕を高く上に上げ、ジャンプしながら「フー! フー! フー!」というマントラをできるだけ深く叫びます。足の裏全体で着地するたびに、その音がセックスセンターの奥深くを打つのを感じます。持っているエネルギーすべてを注ぎ込み、自分を完全に燃焼させましょう。
第4ステージ:15分
ストップ! あなたがどこでどんな姿勢をとっていても、凍ったようになって下さい。どのようなかたちであれ、姿勢を整え直さないように。咳をしたり動いたりすることはすべて、エネルギーを散らすことになり、そうなるとこれまでの努力は失われてしまいます。あなたに起こっているあらゆることに対して、観照者でいます。
第5ステージ:15分間
祝いましょう! ダンスを通して、全体への感謝を表現しましょう。その喜びを、一日中たずさえていましょう。
OSHO クンダリーニメディテーション(page26)
Allow the shaking; don’t do it振動が起こるまま、まかせなさい。それをやってはいけない。静かに立ち、振動がやって来るのを感じなさい。そして体が少し震え出したら、それを助けるのはいいが、あなたがやってはならない。それを楽しみ、その至福を感じ、それを許し、受け取り、歓迎しなさい。でも意図してはならない。もし震動を強いたら、それは一種の運動、体操のようなものになってしまう。その時、震えはあっても、それはただ表面的なものだ。それはあなたに深く浸透してゆかない。あなたは内側では、石や岩のように硬いままだ。あなたは操作する者、行為者のままで、身体はただそれに従っているだけだ。身体が問題ではなく、あなたが問題なのだ。「震えなさい」 と私が言う時、あなたの固さ、岩のような存在がまさにその根底から震え、それが流動体に、液体になり、溶けて流れるようになるべきだと言っている。そして、岩のような存在が流動体になる時、あなたの身体はそれに従うだろう。その時、あなたが震わせる必要はなく、震動だけがある。誰もそれをしてはいない。震えはただ起こっている。それをしている者はいない。Osho
第1ステージ:15分間
ゆったりと立ち、エネルギーが足元から上昇して来るのを感じながら、全身を振動させましょう。身体のあらゆる部分が、手放し状態で開放されるのを許し、振動そのものになります。目は閉じても、開けていてもかまいません。
第2ステージ:15分間
感じるままに踊りましょう。身体全体を、それが動きたいように動かしましょう。ここでも、目は閉じても開いたままでもかまいません。
第3ステージ:15分間
座るか立ったままで、目を閉じて静止します。内側と外側で起こっているすべてを目撃し、観照したままでいます。
第4ステージ:15分間
目を閉じたまま横たわり、静止しています。
OSHO ナーダブラーマ メディテーション(page28)
In Nadabrahma, remember this: let the body and mind be totally together, but remember thatナーダブラーマでは、これを覚えておきなさい。身体とマインドが完全にひとつになるのを許しなさい。でも、あなたは観照者にならなければいけない。楽に、ゆっくりと、戦わず、もがかずに、裏口を通って、身体とマインドから抜け出しなさい。それらは酔っぱらっている――あなたは外に出て、外側から見ているノノ。Osho
第1ステージ: 30分間
目を閉じ、リラックスした姿勢で座ります。唇も閉じ、もし他の人びとといっしょにやっているのなら、まわりの人びとに聞こえるくらいの充分な大きさでハミングします。これは、全身に震動をつくりだします。自分の体を、ハミングの波動だけで満たされた中空の筒として思い浮かべるとよいでしょう。そして、ハミングがひとりでに続き、あなたはその聞き手になる瞬間がやって来ます。特別な呼吸のし方はありません。自分の好きなように音程(ピッチ)を変え、体が動くなら、優雅に、ゆっくり動かしてもかまいません。
第2ステージ: 15分間
第2ステージは、7分半ずつに分かれています。前半では手の平を上に向け、外に向かって円を描くようにしながら手を動かします。両手をへその位置から前方に動かし始め、それから、互いに鏡に映った二つの大きな円を描くように、左右に分かれてゆきます。その動きは、ときにはまったく動いていないかのように見えるほど、きわめてゆっくりとした動きにします。あなたが、エネルギーを外に、宇宙に与えているのを感じましょう。7分半後、音楽は変わり、手の平を裏返して下に向け、逆方向に動かし始めます。外側から円を描きながら、へその方に向かって手を戻します。それから体の両側へと、外に向けて分かれてゆきます。あなたはエネルギーを取り入れていると感じましょう。第1ステージと同様、体の他の部分が穏やかにゆっくりと動くのを抑えないようにします。
第3ステージ: 15分間
まったく動かずに、静かに座るか横になっています。
OSHO ナタラジ メディテーション(page29)
Disappearing in the dance,……踊りの中に、消え去った後で、沈黙と静寂の中にくつろぐことが、このメソッドによっての内側に向かう道順です。エゴの中心である踊り手を忘れ、踊りそのものになりなさい。それがこの瞑想だ。自分が踊っているのを忘れ、自分が踊りそのものだと感じはじめるほど、深く踊りなさい。分裂は消えなければならない。そしたらそれは瞑想になる。 もし踊りと踊り手のあいだに区別があったら、それは一種の体操だ。健康的で良いものだが、霊的で精神的だとは言えない。それは単なる踊りだ。踊り自体は良いものだし、それはそれですばしい。踊った後、あなたは新鮮に若々しく感じるだろう。でも、それはまだ瞑想ではない。踊り手は消えなければならない。踊りしか残らなくなるまで――。脇に立って、傍観者でいてはならない。没入しなさい!そして、遊び心を持ちなさい。<遊び心>という言葉を、いつも覚えておきなさい。私にとって、それはまさに基本的なことだ。Osho
第1ステージ:40分間
目を閉じ、とりつかれたかのように踊ります。無意識の層が、完全に自分をのっとるのを許します。動きをコントロールせず、起こっていることの傍観者であってもいけません。踊りの中に、全面的に入り込みましょう。第2ステージ:20分間 目を閉じたまま、直ちに横たわります。そして、沈黙のうちに静止しています。
第3ステージ:5分間
祝福のうちに踊り、楽しみましょう。
聞くことのアート(page32)
The art of meditation Is the art of listening With your total being瞑想のアートとは、あなたの実存すべてで聞くことの、アートだ。OSHOOSHOの講話の本質的な目的は、この「聞くことのアート」を学ぶための容易に到達できる方法を与えることです。「努力なしの沈黙」と、油断のない気づきを日々の生活にもたらすための鍵を、経験する機会です。The way I talk is little strange ……「私の話し方は少し変わっている。世界中の誰も、私のようには話さない。技術的にもそれは間違いだ。ふつうの、ほとんど倍の時間をかけている!しかし、ほかの話し手は私とは異なった目的を持つ。私の目的は彼らとはまったく違っている。彼らは、それを準備してきたから話す。リハーサルしてきたことを、単にくり返している。2番目に、彼らはある観念やある考え方をあなたに押しつけるために話している。3番目に、彼らにとって話すことは技巧だ。彼らはそれを洗練し続ける。 私に関する限り、いわゆる演説家や雄弁家ではない。私にとって話すことは、方法や技術ではない。技術的には、私は日に日に悪くなり続けている!でも、私達の目的はまったく異なる。私はあなたをあやつるために、感銘を与えたいのではない。あなたを説得することで達成される、何かのゴールのために話しているわけではない。私はあなたを、キリスト教やヒンドゥー教、イスラム教、有神論あるいは無神論に改宗させるために話しているわけではない。私はこれらのことには関心がない。 実際私の話は、瞑想のためのひとつの方便だ。話すことがこのように使われたことは、かつてなかった。私はあなたにメッセージを与えるためではなく、あなたのマインドの働きを止めるために話す。 私は準備なしで話している。私自身、何が次の言葉かを知らない。だから私は決してどんな間違いも犯さない。もし準備するなら、その人は間違いを犯す。私は決して何も忘れたりしない。なぜなら、その人がもし覚え続けているのなら、そのときは忘れることがあるからだ。だから私は、おそらくかつて誰もそれとともには話せなかったような自由とともに、話している。 首尾一貫しているかどうかには、私は関心がない。なぜならそれが目的ではないからだ。話すことによってあなたを説得したりあやつりたい人は、論理的で道理にかない、あなたの理由を打ち負かさなければならない。彼は言葉を通して支配したい。 私の目的はとてもユニークだ。私は沈黙のはざま(ギャップ)をただつくりだすために、言葉を使っている。言葉は重要ではない。だから私は、相反することや不条理なこと、関係のないことを突然言うこともできる。なぜなら、私の目的はただ沈黙をつくりだすことだからだ。言葉は二の次で、言葉のあいだの沈黙が主だ。これは、あなたに瞑想の一瞥を与えるための単なる方策だ。そして一度あなたが、自分にとってそれが可能なのだと知ったなら、あなたは自分自身の実存の方向に向かい遥かな旅をしたことになる。この世のほとんどの人は、マインドが沈黙することが可能だとは思っていない。可能だとは思わないから、試そうともしない。いかに人々に瞑想の味わいを与えるかというのが、私が話すことの基本的な理由だ。だから私は、永遠に話し続けることができる。私が何を話しているかは問題ではない。ものごとのすべては、自分ひとりでは最初は難しいと感じるだろう沈黙へのいくつかのチャンスを、あなたに与えることだ。 私はあなたに沈黙を強制することはできない。しかし、あなたが自然に沈黙に落ちるような方策をつくりだすことはできる。私が話している最中に、ひとつのセンテンスの途中であなたが次にくる言葉を期待しているとき、何も続かず、ただ沈黙のギャップがある。あなたのマインドは聞くことに注意をそそぎ、次にくる言葉を待っていて、それを逃したくはない。それであなたは自然と静かになる。かわいそうなマインドに何ができるだろう?もしどの瞬間に私が沈黙するかわかっていたら、いつ私が沈黙するかあなたにとって明白だったら、そのときあなたは考えることができるだろう。あなたは静かではなくなる。そのときあなたは知っている、「これが彼が沈黙しそうな瞬間だ。今、私はちょっと自分とおしゃべりすることができる」と……。しかし、それは完璧に突然やってくる……なぜ、ある瞬間に私が止まるのか、私自身も知らない。 私に、あなたの沈黙に対する責任のすべてをとらせないように。なぜならそれは、あなたに困難をつくりだすだろうからだ。ひとりであなたは、どうするつもりだろう?そうなったらそれは、一種の耽溺になる。そして私は、あなたに私に溺れてほしくはない。私はあなたにとっての麻薬になりたくはない。私はあなたに独立していてほしいし、これらの貴重な瞬間を自分で達成できる自信を持ってほしい。 もしあなたが私とともにそれを達成できるなら、私なしでそれを達成できない理由はどこにもない。なぜなら、私が原因ではないからだ。あなたは何が起きているのか理解しなければならない。私を聞いていることで、あなたは自分のマインドを脇においている。 波の音を聞くとき、雲間の雷鳴を聞くとき、激しい雨音を聞くとき、あなたのエゴをただ脇におきなさい。なぜならそんな必要はないからだ……。海はあなたを攻撃しないし、雨はあなたを攻撃しないし、木々はあなたを攻撃しない。そこにはどんな防御の必要もない。そのように生に対し、そのように存在に対し感じやすく開いていることで、あなたはこれらの瞬間を絶えず持ちつづけることだろう。まもなくそれは、あなたのまさに生そのものに
なる。 Osho
OSHO.com Page.42
1989年、OSHOは彼の臨在なしでも彼のワークが続いて行くための、準備を始めました。彼は、拡張したメディテーション リゾートのための新しい建物と設備をデザインし、彼のワークを広げるためにどのように決定がなされるべきか、という指針を与えました。そして最終的に次のように述べました、「この提案が、世界中の人びとの手に入るようにしなさい。それは難問ではない。私がこの時代を選んだのは、このワークを助ける多くの新しいテクノロジーも、また起こるからだ。存在全体がこの仕事の手助けをしている。そして私は、2世紀に渡って、その時代の人間であり続けるだろう」。ジレンマを想像してみて下さい! OSHOの提案とは、私たちが生と呼ぶこの多次元にわたるプロセスの隅から隅までに、明晰さと理解をもたらすための、人類の歴史における最も包括的な試みです。英語とヒンディ語による7000時間の講話テープ、1800時間のビデオ、それらすべては何百冊もの書籍として出版されています。ずらりと並んだ革命的なメディテーション テクニックについては言うまでもなく、客観芸術の極めて美しいコレクションもあります。「宣教師」的活動にわずかでも似かよったすべてのことに対する嫌悪、そして解釈者、聖職者、継承者は無関係であるだけでなく、まったくありがたくない、という何年にもわたる確固とした主張を、彼はしばしば明白に表現して来ました。「それは難問ではない?」 冗談でしょう! しかしその後、1994年にWebが、突然レーダー網に現れました。文章や画像、オーディオ、ビデオの公開を容易にする驚くほどの科学技術の進歩により、OSHOの提案が「世界中の人びとの手に入る」ようになったのです。今日OSHO.comは、進行中のロシア語及び11ヶ国語によって、OSHOの仕事のすべてを知ることのできる導入口です。手段、あるいは興味のある人は、この地球上の誰でもどこでも、仲介人や通訳者をはさまずに、自分自身で見ることができます。毎年、何百万人もの人々がサイトを訪れ、一日あたり何百時間をも費やし、毎月数百万ページを見ています。英語によるOSHOの全講話の完璧な記録があり、興味のある特定のテーマについて検索したり、ただ話された順に読むこともできます。MP3フォーマットのオーディオ ファイルをダウンロードし、言葉だけでなく、その間の沈黙を聞くことも可能です。またビデオは、それらの言葉と沈黙に加え、意識的な身ぶりの優美さをしっかりとどめています。そして、彼の言葉をおさめた書籍の完璧なカタログがあり、さまざまな国の言葉で購入し、読むことのできるリンクも張られています――世界中の人びとが、自分の家の心地よいお気に入りの椅子に座ったまま、利用できるように。もし、ぜひ経験したいと感じるなら、OSHO瞑想へのアプローチの完璧な紹介を見つけることもできます。OSHOアクディブ メディテーションのビデオによる丁寧な説明があり、その瞑想をするときに用いる音楽CDの購入もできます。また、そこで行なわれる全てのプログラムや、行き方の手順と心構えについての完全なトラベルガイドを含んだ、プネーのインターナショナル メディテーション リゾートの広範囲にわたる紹介を調べることも可能です。そして、Webにおける最良の点は、無限に柔軟性があることです。私たちの理解が深まる時、あるいは異なった論点や質問が表面にわいて来る時、マウスをクリックし、ページを更新し、かつては当惑したのに今ではわかりやすくなっている言葉や言い回しに再訪することで、瞬時にその反映を見つけることができます。OSHOはそれについて次のように語っています。「時々こんなことが起こるだろう、今日あなたが私を聞いて、何年も後に私を理解する。あなたがたとえ何かを聞いたとしても、それはまるで種のままだ――それはふさわしい時を、ふさわしい季節を待つ。それは、熟するのを待つ」。
OSHO タイムス Page.44
WEBの中でも特に良く読まれているページです。OSHOとはや、OSHOのヴィジョンのページにはいつでもアクセスできますし、家族、教育や、今月の特集、クリエイティビティについて、感情について、恋愛について、という3つのセクッションからなるあなたの質問コーナーは、それぞれ毎月10日に、今週の瞑想や、忙しい人たちのための瞑想のページは毎週、そして世界各国の料理が紹介された今月のレシピのページは、毎月1日にアップされるなど、盛りだくさんな内容です。
メディテーション・リゾート Page.44
インド・プネーにあるメディテーション・リゾートの映像とインフォーメーションのセクションです。キャンパスの中の設備が映像で見られるバーチャルツアーのページからご覧ください。OSHOマルティバーシティでは、各ワークショップやコースの内容の説明と、任意の月のスケジュールが見れます。もしあなたがリゾートを訪問する計画を立てているのなら、トラベルガイドを見てください。持参すると便利なものから、旅行経路、宿泊案内など、必要な情報がここで得られます。また、あなたが長い滞在を予定していて、リゾート内のワークへの参加を考えているとしたら、ぜひレジデンシャル・プログラムのページをチェックしてみることですね。
メディテーション Page.45
自分自身で探求する瞑想者のために役立つ情報です。ユニークで画期的なOSHOアクティブ瞑想は、ステージごとの解説とともに、ヴィデオ映像を見ながら進んでゆけるので、初めての人に最適です。よく寄せられる質問のコーナーでは、この瞑想が自分に合っているかどうかなど、いろんな疑問に対する答えが得られるでしょう。
聞くことのアートは、努力なしに静けさを体験することについてのOSHOの講話です。その他、瞑想の本や記事、他の技法や、世界中の瞑想のための場所など、盛りだくさんの情報にリンクできます。サイトマップをじっくりご覧ください。
WEBキャスト Page.46
今日の一瞥、インサイト、今日のジョーク、スピリチュアリー インコレクト、どれも英語のページですが、わからないと言って尻込みせずにアクセスしてみましょう。また、日本語のインサイトも聞くことができます。そこに意外なメッセージを聞くことがあるかもしれません! 特にオーディオ グリーティング のページは、自分でアレンジした素敵なグリーティングカードを送れますし、Web TVを覗いてみるのもちょっとした冒険になるのではないでしょうか。
ショップ Page.47
OSHOの本や電子ブック、オーディオブックやテープ、瞑想の音楽や贈り物のカタログが見られるオンライン・ショップです。英語が得意なあなた、またはOSHOの講話は英語で聞きたいという方は、ダウンロード可能なオーディオブックや、たくさんの講話を選択できるオーディオブッククラブのセクションもお見逃しないように。瞑想CD/テープには、ダイナミック、クンダリーニ、ナダブラフマ、チャクラブリージング、マンダラ、ノーダイメンション、ワーリングなどがあります。日本語のページもこれから充実させていきますので、時々のぞいてみてください。
ライブラリ Page.47
英語のタイトルだけで230はあるOSHOの講話に、キーワードを選んでアクセスできるというライブラリーのコーナーです。週、月、年契約でインターネットからアクセス権を購入します。まずはオンラインデモのページでお試しください。選りすぐりの講話集では日本語の講話からの抜粋を楽しむことができます。
OSHO 禅タロット Page.64
タロットカードは何千年の歴史を持っており、古代エジプトの時代から、いやおそらくはもっと以前からあるものです。タロットが西洋で知られるようになったのは中世の頃ですが、あの騒動の最中に、神秘スクールの教えの中で、伝達のための暗号としてカードの隠喩が用いられてきました。長い年月の間に、タロットは様ざまに用いられてきました――未来予知や軽い客間のゲームとして、あらゆる状況の中の目に見えない情報を集める方法として、使われてきたのです。OSHO 禅タロットは、未来を予見したり、占ったりする従来のタロットとは違います。むしろそれは禅の超越ゲームであり、瞬間を映し出し、個人的な判断や妥協なしに、今ここにあるがままのものを、ためらいなく現わすためのものです。このゲームは、繊細さや直感、慈しみや受容性、勇気と自立していることなどにチューニングすることへあなたを招待します。気づきに対するこのフォーカスは、慣習的なタロットカードのアプローチからすると、まったく革新的なものです。
禅のアプローチ
禅は普段の生活の美と神聖さに重点を置きます。禅のひじょうに大切な洞察は、生というものが過ぎてしまった過去ではなく、決してやってこない未来でもなく、今この瞬間に起こっている、ということです。禅のアプローチは、やってくるはずのことではなく、たった今起こっていることにフォーカスされているのです。私たちは、今私たちが立っているこの場所から、毎瞬ごとに未来のための基盤を築いています。その足元がしっかりしていればいるほど、何であれ起こってくることに応答し、関わるための心構えができるのです。それが私たちの欲していることである場合もあれば、そうでない場合もあるでしょう。私たちが思っているよりもずっと良いことが起こるかもしれないし、恐がっていたり避けられたら良いのにと思っていたことが、結果として祝福に転じることもあるかもしれません。禅のアプローチは、何であれ今起こっていることと、ただ共にいる、ということです。生は私たちが学んで成長するために必要なものを的確に私たちに与えている、という信頼を持ち、それと共にしっかりいることです。レッスンの中で私たちにできることは、私たちがマスターできうる限りの正直さと明晰さとともに、新しい目的に向かい合ってゆくことだけです。 OSHO 禅タロットは、現在時制を超越した次元への扉です。
使い方 禅の超越ゲーム
あなたはどのような課題にもタロットを用いることができます。
多くのひとが、彼ら自身の直感とより深い理解につながるための戸口を開く方法として、カードをとらえています。ある課題に対して引かれたすべてのカードは、今この時点でのあなたが見ることのできない、あるいは見たくないことを映し出しているでしょう。しばしばそれは、本人が気づいていながらまっすぐ見ようとしていなかったようなことに、しっかりと向かい合わせることだったりします。カードを引く前に、あなたの内側に静けさを作り出す工夫をしてみましょう。どんなカードを引いても、まず自分自身に問いかけてみるのです――今の私の生活に起こっていることは、このカードの意味することとどんなふうに関わっているのだろう? というふうに。たとえば、カードのメッセージの中に、何かあなたが受け容れたくないと思っていることがあるとしたら、もう少し注意深く見守ってみましょう。あなたの生活の中であなたが見直そうとしている物事を、カードは示していませんか?Osho禅タロットの絵はまったく新鮮です。それらはフレッシュな理解を引き起こします。それらは明晰さを促します。セットになった本の中には新しい引き方が紹介されています。あなた自身のやり方を発展させることもできるでしょう。創造的でいましょう――可能性は無限です。osho.com/shop
ほんの少し、時間がありますか?Page.69
身体(Body)落ち着く
何もすることがない時はいつも、ただ静かに座り、臍の下5cmのところへ落ちてゆき、そこにとどまりなさい。それは、あなたの生エネルギーに中心を見つけさせるだろう。あなたはただ内側に向かい、それを見始めなければならない。すると、それは機能し始める――生命全体がそのセンターのあたりを動くのを、あなたは感じ始めるだろう。一度あなたがハラセンターに調子を合わせるようになったら、勇敢に生きることができる。勇気はそこからやって来る――考えることは少なくなり、より静まり、コントロールされた瞬間は少なくなり、自然な規律が起こり、勇気と、根付きと、地に足がついている感じが起こる。
感覚(Senses)光り輝く
ステップ:1
頭の上から光が入って来ると、ただ感じてごらん。戸外に、空の下に立っていると感じてみる。よく晴れていて――太陽が輝いている。目を閉じてさえ、その光が感じられる。それがあなたを満たしていく。あなたは開いていて、光があなたを満たし、あなたを輝かせる。
ステップ:2
光に浸り、光を飲みほしなさい。それをあなたのハートの中にまでしみ込ませ、そして身体全体に行きわたらせなさい――物質としてのあなたの身体は消え、光の身体になるように。それは奇跡を起こすだろう。
気持ち(Feeling)ムードを変える
ステップ:1
マインドが静かではない――緊張し、心配で、くだらないことをしゃべり、不安で、常に夢見ている――時はいつも、ひとつのことをしなさい。まず最初に、深く息を吐きなさい。いつも、吐く息から始めること。深く息を吐く――できる限りたくさんの空気を吐き出しなさい。空気を吐き出すことで、ムードも吐き出されるだろう。
ステップ:2
まだ、息を吸ってはいけない――お腹を引っ込め、数秒間、息を止めなさい。その後、身体に呼吸を許しなさい。できるだけ深く息を吸いなさい。
ステップ:3
再び、数秒間、呼吸を止めなさい。そのすき間は、あなたが息を吐いたまま止めていた時間と同じくらいであるべきだ。もしあなたが3秒間、息を止めていたなら、今も3秒間止めなさい。息を吐き、3秒間止め、息を吸い、3秒間止める。そして、息は完璧に吐き出されなければならない。全一に息を吐き、全一に息を吸い、リズミカルにやってごらん。息を吸っては止め、吐いては止め……吸っては止め、吐いては止め……。自分の実存全体に変化が訪れるのを、あなたは直ちに感じるだろう。かつてのムードは去った。新しい雰囲気が、あなたに入って来た。Osho
グルメ瞑想家(page124)瞑想はあなたに感受性を少しずつ、少しずつ取り戻させる。そして、この感受性は人々を菜食にする。それはなにかを得たのであって、失なったのではない。それは同時に、あなたをもっと愛情深く、もっと慈悲深く、より感じやすく、よりいっそうの美しさを理解させる。それはあなたを偉大なる音楽に気づかせる。松林に吹く風、流れる水の音が起こす音楽にさえも気づかせる。 食べる時は、注意深くありなさい。どんな行為でも決して覚醒なしで行うことを許さないように。そうすれば、他に何ひとつ必要ではない。この覚醒はあなたの生のいたるところに広がるだろう。それは24時間のものとなる。瞑想に特別の時間を取っておく必要はない。ブッダは瞑想は生活と離れたものではありえないと言った。それは生のなかで広がり、混ざり合う。それは生とひとつにならなくてはいけない。瞑想する人は本当に食べる。彼は本当に味を知っている。あなたは食べながら、頭の中で千にひとつのことをしている。あなたはそこにいない。瞑想者はまさに一杯のお茶を飲む。そのひと啜りずつをまるで宝物を見つけたように楽しみながら。彼は本当にすべてを味わいつくす。薔薇の花の美しさを、飛翔する鳥を、空に浮かぶ白雲を、満天の星空を。生はこんなにも光彩であふれてかえっている。それだから、瞑想者は、沈黙し、空いていて、その瞬間にいるから、その最大限まですべてを味わいつくす。ワインは単にエクスタシーの象徴だ:生はただ必要を満たすだけのために生きるものではない。それは満ちあふれていなければならない。それはダンスでなければならない。ワインは必需品ではない。誰にとってもそれは必要というわけではない。それは祝祭だ。が、パンは必需品だ。それは誰にも必要だ。しかし、ワインは誰もが必要というものではない。それは祝祭だ。Osho
OSHOとは? Page.151
私の道はハートの道として表されてきた。だが、それは真実ではない。ハートはあなたにあらゆるイメージを与える。それはあなたに幻覚や幻想、甘い夢を与えるが、真実を与えることはできない。真実はその後ろにある。頭でもハートでもなく、あなたの意識の中に。
I am not interrested at all to convert……
私は誰かを自分のイデオロギーに改心させることになど、全く興味ない。私にはイデオロギーなどない。第二に私は、誰かを改心させようという、まさにその努力こそ暴力だと確信している。それは彼の個人性を妨げている。彼の独創性を、自由を妨げている。
I have to tell jokes because you are all religious people,……
私はジョークを言わなければならない。なぜならあなた方は皆、宗教的な人びとだからだ。あなたは深刻になりがちだ。私は時々、あなたが自分の宗教性を忘れられるように、あなたの哲学や論理、体系を忘れて大地に倒れこめるように、あなたをくすぐらねばならない。私は繰り返し繰り返し、あなたを大地に連れ戻さなければならない。さもなければあなたは深刻に、もっともっと深刻になりがちだ。そして深刻さは癌のように育つ。
I am all in favor of the skeptical mind.……
私は懐疑的なマインドに大賛成だ。あなたがそれを経験するまでは何も信じてはならない。何も信じてはいけない。どんなに時間がかかろうとも質問し続けなさい。